ノーベル経済学賞に米大3教授 貧困削減へ効果的介入 解明

黒崎卓 一橋大学教授

ポイント
○社会実験的政策評価の基礎構築で革新性
○インドで500万人以上の小学生が恩恵
○小さな実践的問題の解決を積み上げ成果

2019年のノーベル経済学賞は、米マサチューセッツ工科大(MIT)教授のアビジット・バナジー氏とエステール・デュフロ氏、米ハーバード大教授のマイケル・クレマー氏の3氏に決まった。授賞理由は「世界的な貧困緩和への実験的アプローチ」である。

開発経済学の研究に長く携わる筆者にとって、3氏の切り開いた手法は革新的であり、授賞は驚くべきものではない。ただし授賞のタイミングは予想より早かった。15年の国連総会で採択された「持続可能な開発目標」(SDGs)を30年までに達成するうえで、開発経済学の実践的な革新を評価する機運が選考委員会で高まったのかもしれない。

◇   ◇

一報を聞き、開発経済学におけるRCT革命への授賞だと感じた。RCTは「無作為化比較実験」「ランダム化比較試験」、あるいは「社会実験的政策評価」と表現される。Rは評価したい政策の有無ないしは比較したい複数の政策のどれかをランダムに割り振ることからとった頭文字、Cは結果に影響しそうな諸要因をコントロールした環境を作ることを意味する頭文字、Tはトライアルの頭文字だ。

政策の効果を正しく測るには、医学の新薬試験と同じ方法を使えばよい。新薬の効果を測りたい患者を無作為に「治験群」と「対照群」に割り振り、前者にのみ新薬を施し、2つの患者群の治癒状況に違いが生じるかを統計的に検定する。

これに近い実験を設計するのが、社会科学におけるRCTだ。潜在的な政策介入のターゲットの一部を実験対象とし、治験群と対照群を無作為に割り振り、前者にのみ政策介入を施し後者には実施せず、介入後に経済的な変数に違いが生じるかを統計的に検定する。無作為化が適切なら政策介入の効果が正確にわかる。

RCT自体は、税制や福祉政策の評価のために先進国で1980~90年代に実施された例があり、今回の受賞者の発明品ではない。途上国の貧困削減政策の評価に全面的にRCTアプローチを適用する基礎を作ったところに革新性がある。デュフロ、クレマー両氏らの著書「政策評価のための因果関係の見つけ方」で、RCTを実施するためのノウハウが解説されている。

3氏を中心に多数のRCTが途上国で実施され、貧困削減に有効な介入が次々と明らかになってきた。クレマー氏が分析したケニアでの虫下し薬の児童への配布政策はその代表例だ。

バナジー、デュフロ両氏が中心となり03年、MITにジャミール貧困対策研究室(JPAL)が設置されると、驚くほどの短期間で開発経済学を世界的にリードする組織としての地位を確立した。JPAL発の研究成果は、教育、保健、金融、農業・製造業、環境・エネルギー、ジェンダー汚職・賄賂、犯罪・暴力・内戦など、広範な開発テーマをカバーしている。

図はバナジー、デュフロ両氏が関わったインドでの教育RCTの分析結果だ。非政府組織(NGO)が実施していた習熟度別補習により児童の学力が上昇することを、小規模RCTで確認した後、州政府との共同研究として規模拡大のためのRCTが実施された。

縦棒はパラグラフまたは短い文章が読めた3~5年生の比率を示す。左の黒い縦棒は介入前のスコアだ。無作為化が適切なため、対照群と治験群の間に介入前には全く差がないことから、両群を一緒にした1本の縦棒になっている。

介入後のスコアは同じテストを用いて読解力を測るため、対照群、治験群ともに介入前よりも上昇している。問題は両者の差だ。中央の濃い灰色の縦棒は介入後の対照群のスコア、右側の薄い灰色の縦棒は介入後の治験群のスコアだ。両群の差の有意性を95%水準でチェックするためのひげが治験群の縦棒に加筆されているが、ひげの幅を考慮しても、介入後の治験群のスコアは対照群よりも高い。

図のAはハリヤーナー州で実施された「正規教員による習熟度別補講モデル」の効果を示す。治験群の3~5年生の読解能力向上は対照群に比べ5ポイント高く、その差は統計的にも有意だ。

この補講モデルは、インド全域で10万を超す小学校に導入され、約500万人もの生徒が恩恵を受けた。

ただしインド国内にはウッタル・プラデーシュ州など学校教育環境の劣悪な地域があり、上記モデルの導入が難しい。そこで同州では「ボランティア教員による校内での課外キャンプモデル」が試された。図のBに示すように、この介入は3~5年生の読解能力を25ポイント引き上げ、ハリヤーナー州での対照群に追いつくという大きな効果を持った。インド全域の教育環境劣悪地域にこのモデルが導入され、約4千校、20万人強の受益者を生み出した。

◇   ◇

近年、日本でも「証拠に基づく政策立案」(EBPM)が重視されるようになってきた。RCTによる政策分析は、EBPMに用いられる証拠として最も説得力の高いものといえよう。

くろさき・たかし 64年生まれ。東京大教養卒、スタンフォード大博士。専門は開発経済学、アジア経済論

くろさき・たかし 64年生まれ。東京大教養卒、スタンフォード大博士。専門は開発経済学、アジア経済論

21世紀初頭には、開発経済学の国際会議に参加すると、実証分析はRCT一辺倒の傾向になっており、筆者を含め多くのエコノミストがそれに懐疑的だった。

その理由は、(1)そもそも人間を対象にきちんとした無作為化が可能なのかという技術的問題(外れた人が持つ嫉妬心、当たった人から外れた人へのスピルオーバー=拡散=など)(2)マクロ経済政策や大型インフラプロジェクトなどRCT実施が難しい政策が研究対象外となる恐れ(3)効果を測定することに集中するとその背後にある経済メカニズムへの関心が薄まってしまうという批判――などだ。

しかしその後の研究動向をみると、技術的な面での改善が進んだ。行政改革などそれまで適さないと思われた分野にも工夫してRCTを適用し、情報の非対称性などミクロ経済学的に重要なメカニズムを明らかにするようなRCTも実施されるようになってきた。

とはいえRCTが最も効果的なのは、やはり小さくても実践的な貧困削減政策の評価だ。小さな実践的問題の解決を積み上げていくことの意義については、バナジー、デュフロ両氏の著書「貧乏人の経済学」で分かりやすく説明されている。

3氏の中で筆者が最も多く会ったのはバナジー氏だ。アジア出身者のノーベル経済学賞受賞は、98年のアマルティア・セン氏に次いで2人目。2人ともインド・ベンガル地方出身でコルカタの同じカレッジで学んだ。インドの国際会議にバナジー氏が出席すると、周りに大きな人だかりができ、政策談議に花が咲く。

信用市場や情報の不完全性に関する理論的研究で開発経済学者として名を成したバナジー氏が、RCTの貢献でノーベル賞を受賞するのは不思議に感じる。MITでの教え子だったフランス出身のデュフロ氏の才能を開花させたのも、彼の懐の深さが生み出した取り合わせの妙だろう。デュフロ氏が政策評価の実証研究を極める一方、バナジー氏は今も時折、初期の理論的研究の香りのする論考を発表しているのも印象的だ。

個人情報の利用目的

当ブログでは、メールでのお問い合わせ、メールマガジンへの登録などの際に、名前(ハンドルネーム)、メールアドレス等の個人情報をご登録いただく場合がございます。

これらの個人情報は質問に対する回答や必要な情報を電子メールなどでご連絡する場合に利用させていただくものであり、個人情報をご提供いただく際の目的以外では利用いたしません。


個人情報の第三者への開示

当サイトでは、個人情報は適切に管理し、以下に該当する場合を除いて第三者に開示することはありません。

・本人のご了解がある場合

・法令等への協力のため、開示が必要となる場合

個人情報の開示、訂正、追加、削除、利用停止

ご本人からの個人データの開示、訂正、追加、削除、利用停止のご希望の場合には、ご本人であることを確認させていただいた上、速やかに対応させていただきます。


アクセス解析ツールについて

当サイトでは、Googleによるアクセス解析ツール「Googleアナリティクス」を利用しています。

このGoogleアナリティクスはトラフィックデータの収集のためにCookieを使用しています。このトラフィックデータは匿名で収集されており、個人を特定するものではありません。この機能はCookieを無効にすることで収集を拒否することが出来ますので、お使いのブラウザの設定をご確認ください。


広告の配信について

当サイトは第三者配信の広告サービス「Google Adsense グーグルアドセンス」を利用しています。

広告配信事業者は、ユーザーの興味に応じた広告を表示するためにCookie(クッキー)を使用することがあります。

Cookie(クッキー)を無効にする設定およびGoogleアドセンスに関する詳細は「広告 – ポリシーと規約 – Google」をご覧ください。

第三者がコンテンツおよび宣伝を提供し、訪問者から直接情報を収集し、訪問者のブラウザにCookie(クッキー)を設定したりこれを認識したりする場合があります。


当サイトへのコメントについて

当サイトでは、スパム・荒らしへの対応として、コメントの際に使用されたIPアドレスを記録しています。

これはブログの標準機能としてサポートされている機能で、スパム・荒らしへの対応以外にこのIPアドレスを使用することはありません。また、メールアドレスとURLの入力に関しては、任意となっております。全てのコメントは管理人が事前にその内容を確認し、承認した上での掲載となりますことをあらかじめご了承下さい。加えて、次の各号に掲げる内容を含むコメントは管理人・瑚心すくいの裁量によって承認せず、削除する事があります。

・特定の自然人または法人を誹謗し、中傷するもの。

・極度にわいせつな内容を含むもの。

・禁制品の取引に関するものや、他者を害する行為の依頼など、法律によって禁止されている物品、行為の依頼や斡旋などに関するもの。

・その他、公序良俗に反し、または管理人・瑚心すくいによって承認すべきでないと認められるもの。


免責事項

当サイトで掲載している画像の著作権・肖像権等は各権利所有者に帰属致します。権利を侵害する目的ではございません。記事の内容や掲載画像等に問題がございましたら、各権利所有者様本人が直接メールでご連絡下さい。確認後、対応させて頂きます。

当サイトからリンクやバナーなどによって他のサイトに移動された場合、移動先サイトで提供される情報、サービス等について一切の責任を負いません。

当サイトのコンテンツ・情報につきまして、可能な限り正確な情報を掲載するよう努めておりますが、誤情報が入り込んだり、情報が古くなっていることもございます。

当サイトに掲載された内容によって生じた損害等の一切の責任を負いかねますのでご了承ください。