教育にパラリンピックを。交通事故で車いすに 障害はかわいそう?偏見に苦しむ
教育にパラリンピックを取り入れようと奔走する、国際パラリンピック委員会(IPC)教育委員のマセソン美季さん(46)。半生をたどる連載の第2回は、運動が大の得意だった子供のころにさかのぼる。体育の教師になるという夢を追い求めていた大学時代、突然の交通事故が襲う。
何の影響かまったく覚えていないのですが、ほかの子が人形ごっこをしているときに、先生ごっこをしていました。ウサギとタヌキのどちらが多いでしょうといった問題を作って、妹たちに解かせていたそうです。
どんな先生になりたいか具体的に見えてきたのは、中学のときの体育の授業です。運動が苦手で見学ばかりしている子がクラスにいました。陸上のハードルも怖くて立ちすくんでいたのですが、2つ連続で跳んだとき先生が「すごい!」と、まるで自分のことのように喜んだのです。それをきっかけに、その子は体育が好きになりました。
衝撃的な出来事でした。スポーツが上手な子を育てるのではなく、スポーツが好きな子をつくれる体育の先生になろうと心に決めました。
部活動は水泳に打ち込み、主将も務めました。でも高校では柔道部に入りました。卒業生に柔道・五輪メダリストの田辺陽子さんがいて、高校時代に柔道に出合ったと知ったからです。白帯をつけて「受け身から教えてください」という状態からでしたが、1年生から3年連続で都大会で準優勝しました。
10月の早朝、いつものように柔道の朝練に行くため、自転車で家を出ました。交差点で、信号が青に変わるのを待って横断歩道を渡り始めたときです。目の前に、ダンプカーが突っ込んできました。
後に聞いたところによれば、私の体は20~30メートル飛ばされ、ダンプカーの下敷きになりました。脊髄損傷で下肢は完全にまひ。両方の肺がつぶれ、自分で呼吸もできません。生きているのが不思議なほどの重傷でした。
手術後しばらくは頭や顔はもちろん手も動かせなかったため、意思疎通ができず、自分の身に何が起きたかを正確に知ることができませんでした。「もう歩けないんだ。好きだったスポーツができなくなる」。そう思って落ち込みました。
ようやく車いすに乗れるまで回復してきたとき、強烈な違和感に襲われました。自分のなかでは立って歩くか車いすで移動するかだけの違いなのに、車いすに座ったとたん周りの人の目や態度が変わるのです。
痛々しいものを見るような、腫れ物に触るような感じです。聞きたいことがありそうなのに、「これ聞いたら失礼かしら」とのみ込んでいる。踏み込んではいけない領域を勝手に決められていて、会話もぎこちない。車いすの持つ威力、偏見のようなものをすごく感じました。
入院して半年たったころリレハンメル冬季パラリンピックが開かれていて、主治医の先生が記事を見せてくれました。「うちを退院した子も出場しているよ」と言われましたが、そうかと思っただけで、あまり関心を持てませんでした。
(高橋圭介)